太閤秀吉像
太閤秀吉像は、有馬温泉駅のすぐ隣に湯けむり広場にが鎮座している。温泉街を見守るように鎮座している秀吉の視線の先には妻のねね像が立っている。
秀吉は、1598年にこの世を去るまでに9回(15回)も湯治に訪れたと言われている。秀吉が同じ温泉に何度も遠路はるばるやってくるというのはまさに前代未聞の事だが、子供の恩恵にあやかりたいと願っていたのでしょう。その影響からか有馬温泉は、今でも子宝の湯として有名ですね。
秀吉のお陰で今の有馬温泉はあると言われている。地震により壊滅的な被害を受けた時、秀吉は泉源の大改修工事を行った。この工事以来、泉源の改修工事は行われていないそうだ。
太閤秀吉は1590年に有馬大茶会を盛大に開催しているが、今でも秀吉を偲ぶ行事として、毎年11月2,3日に有馬大茶会が行われている。
秀吉は1537年尾張国愛知郡中村に生まれ、木下藤吉郎と名乗り松下長則に仕えた。
1554年あたりから織田信長に小者として仕え、次第に頭角をあらわした。1564年には浅野長勝の娘、ねね(当時14歳)と結婚している。その戦国時代にあり幾多の戦いを経て秀吉は織田信長の実質的な後継者となった。
1583年、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。 1585年には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌年には豊臣の姓を賜って太政大臣に就任、政権を確立した。
正妻のねねとの間には、子供に恵まれなかったが、1593年側室の淀殿との間に、秀頼が産まれる。
秀吉は晩年、朝鮮侵略を企てるが成功はしなかった。朝鮮侵略に苦戦している頃、秀吉は病を発病し、1598年8月18日、伏見城で没した、享年62才。


